スペインによるオーストラリア入植計画!?その驚くべき内容とは!

 オーストラリアは唯一、その大陸のすべてがひとつの政府によって統治され、その大陸全土で英語が話される場所です。そんなオーストラリアにイギリスが入植を始めたのは、1770年頃の話ですが、それ以前からオランダ人・ポルトガル人・フランス人がオーストラリアと接触していたようです。

 1790年代に入れば、この時代にはもはや没落を始めていたといっても相違ないスペインも、イギリスのオーストラリア入植に合わせて入植を行おうとしていたようで、これはスペイン海軍のアーカイブから近年判明しました。では、これはなぜ実現しなかったのでしょうか?

 オーストラリアの最初の入植地はニュー・サウス・ウェールズで、現在のオーストラリアの首都・シドニーの周辺です。スペインの最初の入植計画は、なんとこのイギリス領シドニーの粉砕から始まります。これについては、スペイン帝国国王・カルロス4世がサインした書類が発見されており、現在のシドニーにあたるポート・ジャクソンに大砲を発射し、さらには放火するといった内容です。さらには、100隻の艦隊での包囲もこれに含まれています。

シドニー湾真北の概観 – トーマス・ワトリング – 1794

 さて、どうやらこの作戦は、どこまで本気だったかはわかっていません。しかし、仮に実行されていたとしてもスペインの優位は極めて短期間で終わったでしょう。当時のオーストラリア植民地の人口は4000人程度で餓えや疫病などの問題も存在したものの、イギリス海軍はスペインのものよりはるかに強力でした。これは、のちにトラファルガー海戦 – ナポレオンによる大陸封鎖令の一幕 – によって証明されます。

 さて、スペインがこんな「過激な」計画を立てるに至った懸念点はどこにあったのでしょうか。答えはその立地です。オーストラリアに拠点が気付かれた場合、スペインの植民地同士を結ぶ交易路を略奪するのに便利であろうと考えたためです。スペインは仮にもかつての「大帝国」、それも広大な植民地を有し、その植民地は中南米のほとんどとフィリピンなどです。その太平洋航路を邪魔される可能性があると考えたのです。

 その後、スペインはイギリスの入植を「真似した」計画を立て、スペインのカディスを出港しました。南アメリカからメキシコへ、そしてアラスカまで向かい、またメキシコへ戻り、マニラへ向かったりニュージーランドへ向かったりと右往左往しました。この間、約4年間にもなります。スペインはその後フィリピン・チリ・オーストラリアの三角貿易によって利益を得ることをもくろみますが、それもかなわず。

 そうこうしているうちにナポレオンが政権を掌握、オーストラリアを取り巻く情勢はさして変わらずトラファルガー海戦が発生しました。スペインはフランス側で参戦しましたが、イギリス・スペイン間においてお互いに植民地の侵犯は行われませんでした。結局カルロス4世は息子のフェルディナント7世と対立を起こしたのちに退位、計画も実行されることはありませんでした。

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